これは根拠のない仮説と、勝手な主張です。

新聞、テレビ、雑誌、ブログ、何でも同じですが、誤った記事や偏った記事があると当然批判の対象となります。このとき、その批判の内容が事実関係の確認であるなど、具体性を伴ったものである場合は、第三者から見た場合でも建設的な意見となることが多いように思います。一方、その記事が誤っている、ということだけに注目していて、何がどう誤っているかにはあまり踏み込まずに「マスゴミ」であるとか「捏造」といったレッテルを貼るだけの行為での批判は、第三者的に見たときにあまり建設的であるとは言えないように思います。私は個人的に、「マスコミ」を「マスゴミ」と侮蔑する発言を繰り返す方の意見はある程度引き算して見るようにしています。ここまではよくある構図ですので、特に改めて述べるような事柄ではないのですが、問題はその後です。例えばその誤っていると思われていた記事が誤報ではなく、それを誤報だと報じた側が誤っていた、というケースを考えてみたいと思います。おそらくですが、事実に関する批判だけをされていた方は、自分の事実認識が誤っていたとして訂正を行うでしょう。一方、マスゴミ、と批判していた方はどのような態度に出るでしょうか。典型的なのは「はじめから分かりやすく説明してくれていたらよかったんだ」と、自省することはなしに、あくまで先方が悪いという態度を取る、あるいは「釣られてしまった」という、あくまで先方の情報発信の仕方に原因があるようなことを言いがちです。これは批判の対象として事実関係ではなく、そもそもの立ち位置ですとか力関係といった事柄を扱っているにあるからではないかと感じています。事実関係を批判していただけなら、自分の誤りを訂正するだけで良いので、コストは大きくありません。しかし、誤報であるという「ミス」に乗っかることで先方の態度を侮蔑し批判を行っていた人は、先方が誤報だったという前提条件が崩れたとき、そんな自分の態度の方が悪かったということになり、自分の人間性そのものを否定されることになります。人間性を否定されるのは本能的にみな嫌います。それを問題にされることを回避しようと「どっちにしたって俺にちゃんと認識させられなかったお前が悪いんだ、おれは悪くない」という態度を取ることになります。私も日頃そのような態度を取りがちです。大いに反省すべきだと思っています。だから君たちも反省しなさい・・・という話ではありません。このような態度は、何によってもたされるのかということをより深く知っておきたいと思っています。私は、これは" 情報の取得に受け身になりすぎることの弊害"ではないか、と感じています。テレビ、新聞、あるいはインターネットでもそうですが、情報に対して受け身になるというのは、意識的にせよ無意識にせよ、相手の発信する情報がある程度正しいという仮定を置いているということとイコールではないでしょうか。
結果として、誤った情報をも、とりあえずは正しいだろうという思考停止の態度で受け取ることになります。この怠惰が続くと、自分が情報を誤って認識するのは、自分の考えが足りないからではなく、相手の説明の仕方が悪いからだ、という考えが根付いてしまうのではいかと感じています。無意識のうちに「第三者が発する情報は常に正くあるべき」という考えが頭にすり込まれた結果「私は○○が言ってたからそう思っただけ。○○が間違ってた、あるいは"この私"が誤認するような言い方をしたんだから、○○が悪いに決まってるじゃないか (私は悪くない)」という態度を取ります。この態度を取ることは、誤った事柄に騙されやすい危うさを持つということでもあります。すなわち第三者の発する情報を、十分に吟味する前に正しいと思い込みやすい、ということです。更に考察を進めます。こういった情報の取得に受け身である人が増えると社会はどうなるか、を考えてみます。そういった人達を相手に情報発信をする側は、彼ら彼女が事実を詳細に伝えなくても正しいと思い込んでくれるので、脇が甘くなります。舌の肥えた客を多数抱えるお店は手を抜くことができないので、その味を維持するために日々研鑽が必要です。一方、味も分からないお客が行列を作る店には、その味を維持するためのインセンティブが働きません。結果として、ひどい味のお店ができあがります。同じように、情報リテラシの低い人間を相手にするメディアの扱う情報は、その品質も低くなりがちです。そしてそんな低い品質の記事を見た受け手は、高い品質にするために事実関係を訂正しようとするのではなく、ただただ「これだからけしからん」と、その態度だけを批判するのです。「学問のすすめ」には、人々の行動を窮屈にするような政治は、政治が愚かだからそうなるのではなく、そうしなければ統治できないほど国民が愚かだからだ、とあります。国民が愚かでなければ、窮屈な施策は必要もなく、より豊かな政治を行うことができる、ということです。これは政治の側がその責任を国民に押しつけているということではありません。政治は政治としての責務を果たす一方、国民は国民としての役割を果たさなければいけないという主張です。政治、国民それぞれが勤勉でなければ豊かな国家を築くことはできない、というのが福沢諭吉の教えでした。愚かなメディア、愚かな政治、愚かな国家は、愚かな編集者、愚かな政治家だけによって作られるのではなく、勤勉であることを忘れ怠惰であることに甘んじた受け手の人々によっても作られるのです。私はそう思います。しかし、愚かだった人間が、学ぶことでそうでなくなることはできます。愚かであったことを自省できる程度に学ぶことは、社会の一員としての義務ではないかと思います。そういうことが当たり前であると思う人々によって構成される社会であって欲しいと思います。